アーモンドもなか

一般人の偏愛雑記です。ジャニオタでもあります。

3/8 密やかな結晶 心とは何か

※舞台「密やかな結晶」のネタバレがあります。

皆さんには、感じたことのある感情をどれだけ挙げられるだろうか。そしてそれが存在することの意味をどれほど考えたことがあるだろうか。昨日観劇した小川洋子さん原作の小説を舞台化した「密やかなる結晶」は、普段私たちが当たり前に記憶していたり、それに対する感情があることの本質を考えさせられる作品だった。今年初の舞台現場を記憶が鮮明なうちに残しておきたいと思う。

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観劇するにあたり原作は事前に読まなかった。読む時間を確保できなかった、というのが正直なところなのだが、「密やかな結晶」という作品に対するイメージを持たずに観劇することで、イメージによって模られた物体の上ではなく、まっ白で平らな紙の上に感想を書ける。そういう意味では正解だったように感じる。

 

舞台となる島では、ある日突然ものが”消滅”する。それは忘却とも抑圧とも性質の異なるもので、心からそれが抉り取られて空洞になるという感覚である。島の人々はそれを受け入れて生きてきたが、人々の中にはレコーダーと呼ばれる記憶保持者が存在する。そのものが消滅しても記憶は残りそれに対する感情も残る。しかしレコーダーは排除される運命にあり、常にその身を秘密警察に追われている。<R氏>は<わたし>に自身がレコーダーであることを告げ<わたし>は自分を献身的に支えてくれる<おじいさん>と共に<R氏>を匿うことを決意し、3人の不思議な共同生活がはじまる。という物語だ。

全編を通して記憶を保持している私たち観客はマイノリティーであるということが不思議な感覚であった。「消滅したものの記憶があるってどんな感情ですか?」「そんなに全てを覚えていたら心が窮屈になったりしないの?」という、<わたし>の純粋な問いかけは見ている者を唸らせる。そもそも私たちはこの島の住民ほど”心”を意識して生きていない。心が、どんな形で、どんな色で、どんな感触でどんな匂いをしているのか。知っている人はこの現実世界には存在しない。でも、花を見て美しいと感じたり、風を感じて気持ちいいと思う心は存在していることを確かに感じることができるのも事実である。劇中に<わたし>が心について<R氏>に問いかけるセリフがあり、そこがとても印象的だった。「心はゼラチンのような感触で、ぬるま湯のような温度で中が透けていて、でもスライムともクリスタルとも違ってしっかり持っていないとこぼれてしまうようなもので・・・」というセリフだ。これは一体どんなものだろうか。私は、このセリフを聞いて白っぽい半透明で手から溢れるくらいの大きさで、瑞々しいナタデココのような物体をイメージした。これが心・・・?と言いたくなるようなビジュアルだが、私は心は一分一秒と姿形を変えてゆくものだと考えた。悲しい時や苦しい時はドロドロに溶けて真っ黒になって、感動した時はダイヤモンドのように透き通って光り輝くようなものである。どちらがいいとか悪いとかではなく、自分の心がこの島の住民のようにたくさんのものが奪われて心が硬いコンクリートのようにならずにいてくれることの尊さを感じた。生きていれば感動、後悔、高揚、嫉妬、歓喜、落胆、希望、絶望・・・など本当に様々な感情が現在進行形で渦巻く。だけどそれを受け入れながらまっすぐ生きるか、それを全て捨てて無の中で生き永らえるか。私は迷いなく前者を選択したい。泥臭くても柔らかな心の感触を失わずに生きていたいと思った。

 

ラストシーンの、全てが奪われ心が衰弱し、命までも消滅した後<R氏>が感じたものは、一見絶望に見えるのだが、一面に舞い散る薔薇の花びらを見て私は希望すらも感じた。全てが消え失せた先にある新たな誕生のような、そんな小さな希望。美しかった。

舞台を観にいったのは昨年の「アマデウス」以来の約4ヶ月ぶりだったが、普段テレビばかり見ている私にとってドラマとは違う生の息遣いとか切迫感が新鮮だった。舞台「密やかな結晶」は、とにかく綺麗な台詞が多くあるのが印象的で、書ききれないほどたくさんの好きな台詞があった作品だった。ビジュアル写真やあらすじだけを聞くと冷たく淡々と流れていくような印象があるかもしれないが、笑いが各シーンに散りばめられていたり、秘密警察がコミカルなキャラ、また関西弁だったり(てっきり大阪公演だけだと思っていたが東京からそうだったらしく関西圏以外の人が関西弁に対してどう感じるのかとても気になる)歌とダンスいったミュージカルの要素があるのもこの舞台の魅力であると思う。原作もぜひ読みたい。